山田はるの略歴

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令和5年1月8日

山田はるの略歴

1915年(大正4年)1月1日生まれ、2017年(平成29年)1月18日没

父親 小野 敏夫(旧姓:福山と思われる) 母親 小野志ゃう(旧姓:尾崎)

小野 敏夫は朝鮮生命の支配人(日韓併合時代の簡易保険普及の為逓信省より出向)

韓国で現在もある数少ない日本の制度として、それを研究している東北地方の大学教授がいるそうです。

長男 小野 丈夫

次男 小野 健吉

長女 山田 はる

二女 上原 敏子

三男 小野 康三

三女 下津 嘉子

四男 小野 昭

の7人

山田 静夫は5女、3男の8人

2人の女子(静代、照代)は夭逝

長女 島村 武子

二女 永野 千代子

三女 清岡 光代

長男 山田 静夫

次男 山田 正夫

三男 山田 常夫

静夫の両親、山田克吉と貴子は市ヶ谷の谷干城家の書生と行儀見習いで結婚。市ヶ谷の谷干城邸の一角に居を構える。谷干城は西南の役で官軍の鎮台として西郷隆盛を抑え、伊藤博文内閣の農商工大臣として逓信講習所、水産講習所等を管轄。学習院院長も務める。

山田克吉は逓信省に入り、初代振替貯金課長となり、高等文官となる。

下村治(海南)と山田克吉が左右にカイゼルひげを生やした記念ハガキがあります。

下村海南は朝日新聞主筆となり、定年となった山田克吉は富士製紙に天下り、それなりに功成り名を遂げる。杉並区三谷町25番地に長男静夫が住んでいた関係で、三谷町15番地に車寄せのある和洋折衷の邸宅を清水組(今の清水建設)で建てましたが、敗戦で米軍に接収されました。満寿子と守夫は広い庭で遊んだ幼い思い出があるようですが、幸子と克敏は記憶がありません。

家族の為に油壷に別荘を持ち静夫が長浜に別荘を建てシーボニアにヨットを保有したのもその影響と思われます。

下村海南氏は日本人の体格を外国人並みにするため日本体育協会を立ち上げた人でもあります。戦中の文官(外交官)首相 広田弘毅が組閣の際 外務大臣に吉田茂 逓信大臣に下村海南を起用とするが軍部の圧力に屈し実現はしなかった。実現していたならばあれほどの悲惨な惨状にはならなかったかもしれない。

下村氏は自分の著書に旅先で山田克吉の訃報を知り、特別に一章を割いて「山田克吉君を偲ぶ」弔詞を設けています。

 

山田はるは舅の克吉から一度も怒られたたことがない優しく温和な人だったと言っていました。山田はるは山田守夫が克吉に性格が一番似ているのではないかと話していた気がします。

 

山田の先祖は縄文人。小野は弥生人ではないか。(山田守夫説)

小野敏夫の旧姓は福山と思われる(彦根藩士に養子に入り家督を継ぐ)

山田克吉は土佐窪川出身の田所克吉が山田貴子と結婚、山田家を継いだ。

 

山田はるは18歳で山田静夫と結婚し、1933年(昭和8年)杉並の農村地帯で山田薬局を開業。

ネット上では今でも山田薬品創業者として山田静夫、山田はる、と載っています。

以上